『崩れ落ちる音』

次の日は土曜日だったので、学校はなかった。普通そんな日には俺は昼ごろまで寝ているのだが、その日は違った。
「お、おはよう、水無月」
「・・おはようございます、由宇人様」
水無月とぎこちない挨拶を交わした後、俺は居間へと向かう。そこでは弥生さんが朝食の準備をしていた。弥生さんは俺に気付くと、こちらに駆け寄ってきた。
「由宇人様、昨日は本当に申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げる。珍しく殊勝である。
「・・・・・別にいいよ、弥生さん。昨日のことはどっちかと言うと俺が悪いんだし」
「・・・お優しいんですね、由宇人様」
顔を上げた弥生さんは神妙な顔をして、こちらを見る。反省してるみたいだ。これに懲りてこれからは大人しくしてくれるだろう。
「次からはもっと考えてやりますね!」
と思っていたらこれだ。まぁ、いいや、諦めよう。
俺はテーブルに向かい、怜莉の真向かいに座る。テーブルには俺と怜莉しかいない。水無月と弥生さんはもっと早くに済ませているし、優莉がこの時間に起きることはまずない。いつもは俺もそうなのだが。
「あら、由宇人、珍しいわね。こんな時間に起きてくるなんて」
「ちょっとね、今日は用事があって」
俺の前には何も置かれていない。まぁ、当たり前だが。
「由宇人様、少しお待ちください。今用意しますね」
弥生さんがそう言って厨房(台所ではなく厨房である)へと向かう。
「用事って何?」
「ちょっと身の回りのものをそろえようと思って」
「街に出るの?」
「まぁ、そういうことだな」
「私も行くわ」
「え、でも怜悧は先週行ったばかりじゃないか」
「別にいいでしょう?それとも私がいると何か困ることがあるのかしら」
怜悧は冷た〜い視線を俺に浴びせる。俺は慌てて首を横に振る。まったく短気だよなぁ、怜莉は。
「でも俺たちだけで行くと優莉が絶対怒るぞ」
「それもそうね・・・・。優莉を待ってたら日が暮れちゃうし・・・」
怜莉は考え込んでいるようだ。だが俺も怜莉も優莉を起こそうとは考えない。どうせ不可能だからだ。
「だから今日は一人で行くよ」
俺がそう言うと怜莉は諦めたように嘆息する。
「・・・・そうね、残念」
その時弥生さんが俺の朝食を運んできてくれた。
「お待たせしました、由宇人様」
俺の前にクロワッサン、サラダ、オムレツ、コーヒーが置かれる。
「そういえば」
「ん?」
俺が優雅にコーヒーを飲んでいると(ちなみに俺がコーヒーを飲むのは、別にコーヒーが好きなわけではなく、そうしないと目が覚めないからである。俺はコーヒー自体は好きではない)怜悧が口を開く。
「昨日何かドタバタしてたけど、何かあったの?」
「・・・あ〜、別に何もないよ。ちょっと弥生さんがすごかっただけだから」
「・・・・・そう、あなたも大変ね」
「まぁね」
怜莉と他愛ない話をしながら、俺は朝食を食べ終わる。
「ご馳走様でした」
ふと前を見ると、怜悧が微笑を浮かべていた。
「何だ?」
「ねぇ、由宇人。あなた今度からこの時間に起きなさい」
微笑みながら命令する怜莉。このザ・傍若無人め。
「無理無理。今だってすごい眠いんだから」
「いいじゃない。大体あなた寝すぎ」
「全然そんなことないと思うけどな」
「・・・・そんなに私と一緒にいたくないのね。優莉とは一緒に寝てるくせに」
「そ、それはあいつが勝手に入ってくるから・・・・!」
俺が焦って弁解すると、怜莉はふふっと笑う。
「楽しいね、由宇人」
「・・・そういやお前と二人っきりってあまりないな」
俺がそう言うと怜悧は唇を尖らす。怜悧にしては珍しく感情表現が豊かだ。
「そうよ、だから少しぐらい優しくしてくれてもいいでしょう?」
「分かったよ・・・・土曜だけだぞ」
「仕方ないわね、それで許してあげる」
・・・まったく我侭なやつだ。でもそんな怜莉の我侭に振り回されるのも悪くないかな、と最近思ってる俺。俺ってもしかしてマゾなのか?

「由宇人様」
今まさに屋敷から出ようとしていた俺に、水無月から声がかけられる。
「何時ごろお戻りになられますか?」
「う〜ん、昼前には帰ってくるつもりだけど・・・。もし遅くなるようだったら電話するよ」
「分かりました。それでは気をつけて行ってらっしゃいませ」
水無月は無表情に言う。そんな水無月の顔を見ていると昨日の水無月がフラッシュバックする。
(もしかして昨日のあれは俺の錯覚だったのかな)
そう思えるほど昨日の水無月はいつもと違っていた。
(俺もパニックしていてあまりよく覚えてないんだよな)
なんて惜しいことをしたんだ、俺は・・・・もう一回同じことすれば見れるかな?いや、それはリスクが高すぎるな。
「・・・・あの由宇人様、私の顔に何か付いていますか?」
「あ、ああ、ごめん。何も付いてないよ」
知らず知らずのうちに水無月の顔を凝視していたみたいだ。それでもまったく表情は変わらないから大したものだ。
「じゃあ・・・行ってきます」
俺がそう言うと水無月は一度お辞儀をして去っていった。
俺は庭(何だか庭と表現するのに非常に違和感があるが)を抜けすぐ近くにあるバス停(星織邸前と書かれている)で市街方面へと向かうバスに乗る。
バスに揺られて20分、見事に吐き気を催した俺が降りたのは式坂駅だった。この式坂市は駅を中心に、ビル群が聳え立つ市街地、その市街地を覆うように住宅地となっている。この住宅地は金持ちばっかの日本有数の高級住宅地だ。
(人が多過ぎるな・・・・)
この式坂市はそれなりに発展しているので、休日になれば近隣の町から人が大勢やってくる。人ごみが嫌いな俺としてはかなりのストレスだ。まぁ仕方のないことだ、我慢するしかない。そんなことを思いながら俺は店が立ち並ぶメインストリートへと歩いていった。

「水戸くーん!」
ある店の前で俺が洋服を物色していたら、突然そんな声が俺の後方から聞こえてきた。驚いて振り向くと俺から5メートルぐらいのところに二人の少女がいた。俺は目が悪いので、目を凝らすが良く見えない。誰だろうと思っていると、
「奇遇だね、水戸君。こんなところで会うなんて」
そう言いながら笑顔で近づいてくるのは、何を隠そう(まったく隠す必要はない)春音だった。もう一人はというと
「春音、いきなり大きな声を出さないでくれません?」
誰だろう?きれいな黒髪を後ろで編んでいて、高そうな服を着ている。もちろん俺の知っている人ではない。春音の友達みたいだ。
「こんなところで何してるの?」
「何って・・・服を見てるだけだけど」
「へぇ〜、水戸君ってこういう服が好きなんだ」
と春音が俺が今まで見ていた服を取り上げる。
はぁ〜、厄介なやつに見つかっちゃったかな。
「水戸君、一人なの?怜莉と優莉は?」
「いないよ、俺一人」
俺がそう言うと春音は満面の笑顔を見せた。普通の男なら、春音はかなり可愛いので笑顔を向けられればかなり嬉しいだろうが、俺は嫌な予感しか憶えない。優莉と弥生さんのせいで俺は嫌な反射を習得してしまったみたいだ。
「じゃあ一緒に回ろうよ!」
しかも見事に当たってしまったみたいだ。すると今まで春音の後ろで沈黙を保っていた(なんか俺のことを睨んでいたような気がした)少女が口を開いた。
「ちょっと春音、さっきからわたくしのことを忘れていません?」
「あっ、そうだね。水戸君、紹介するね、この娘は」
「自己紹介ぐらい自分で出来ますわ。初めまして、わたくし小鳥遊璃瑠亜と申します。以後お見知りおきを」
「え、えっと・・・、水戸由宇人です」
そのかしこまった自己紹介になぜか俺も丁寧語になってしまう。
「知ってますわ。わたくし、あなたと同じクラスですわよ」
「あ〜、ごめん、知らなかった」
というかみんな俺のことは知ってるんだな。
「ねっ、だからこの機会に親睦を深めようよ。璃瑠はいいよね」
「わたくしは構いません」
「ねぇ〜、いいでしょう、水戸君」
すごい春音が乗り気だな。だが俺はノーと言える日本人。
「悪いけど遠慮するよ」
「ええ〜!何で〜!?」
春音は怒ったような顔をする。その剣幕にひるむ俺。負けるな、がんばれ俺。
「い、いやだから、俺と春音達じゃ寄る店が全然違うだろ?」
「そんなの全然関係ないよ」
ああ、怒ってる、春音がとても怒ってるのが分かりたくないのに良く分かってしまう!し、しかしここで退いてはいけない。ここで退いたら俺は一生異性に頭が上がらない男になってしまう!それだけは絶対に避けなければならない。
「いやいや、ホンとに俺はこういうメンズカジュアルの店しか行かないから、春音たちには退屈だろ?」
「別に私たちも用があったわけじゃないから、どこだっていいの」
「いやいやいや・・・・」
くっ、これもかわされたか。ほかの言い訳を考えていると、ふと春音が低く小さくつぶやいた。
「もしかして水戸君、私たちと一緒にいるのがいやなの?・・・・怜莉と優莉に言っちゃおうかな、水戸君が意地悪したって」
「さぁ春音、次はどこに行く?!」
見事に完敗したな・・・・。ああ、そういえば今朝も似たようなやり取りをしたなぁ、と思いながら「最初からそう言えばいいんだよ。まったく水戸君ったら照れ屋なんだから」と悪魔のような(もう俺にはそうとしか映らない)笑顔を浮かべた春音に引っ張られていく俺。そんな俺たちを見ながら、小鳥遊さんは小さくため息をついた。

「い、いやだ。俺は絶対に撮らないぞ」
「だめだめ、水戸君も一緒に」
「ちょっと押すなよ、春音!ああ!小鳥遊さんまで。何だこの罰ゲームは!」
「観念してください」
「二人掛かりとは卑怯な!くそっ、俺には拒否権も与えられてないのか!」
「しつこいよ、水戸君。いい加減にしないと怜莉と優莉に言っちゃうよ?」
その一言が致命的だった。そして俺は人生で初めてプリクラを撮るという屈辱を味わった。というかこれがあの二人にばれたらすごい怒るだろうな・・・・、と非常に気分がブルーになってしまう俺。
「じゃあ・・・・そろそろお昼ごはん食べようか」
「そうですわね、どこにします?水戸君はどこがよろしいですか?」
「もうどこでもいいです・・・・・」
「むっ、そういう態度は感心しないな。怜莉と優莉に言っちゃうよ?」
「お前さっきから俺を脅しすぎだぞ!」
「そうですか・・・・、水戸君に言うことを聞かせたいなら、そう言えばいいんですわね」
「・・・・・・・・もう勘弁してくれ」
というわけで(どういうわけだ)一行は俺が選んだラーメン屋に向かった。幸いに行列も少なく、俺たちは10分くらいで店に入ることが出来た。俺たちはテーブル席に座る。この店はとんこつラーメン一品しかおいていないので、それを3つ頼むと5分で俺たちの前にはおいしそうなラーメンが並んだ。
「これが・・・・・らぁめんですか?」
蓮華でスープを一すくいしていた俺は(最初の一口はスープからというのがささやかな俺のポリシーだ)その質問の意図を考えるのに5秒を費やした。
「・・・・もしかして小鳥遊さん、ラーメン食べたことない?」
「ええ、名前ぐらいは存じ上げていたのですが、食べたことはありません」
うわぁ、この人本当に俺と同じ高校生なのか?そういえば小鳥遊財閥の長女という話だし、なるほど、生粋のお嬢様というわけか。それを言うなら怜悧と優莉もそのはずなんだけどなぁ、とてもじゃないがそうは思えない。これを言ったらあの二人のことだ、滅茶苦茶怒るんだろうな。
「ほら、早く食べないと麺が伸びちゃうよ」
「え、ええ」
小鳥遊さんは恐る恐るといった感じで麺を口に入れる。
「・・・・美味しい」
「だろ?俺が今まで食べたラーメンの中で文句なしにここが一番うまいよ」
「ええ、とっても美味しいです」
「ご馳走様!」
「はやっ!」
見ると春音はもうスープも残さず全て平らげていた。会話に参加しないと思ったら、一心不乱にラーメンを食っていたらしい。
「ここのラーメンほんとに美味しいね〜」
「・・・・・はぁ」
まったくみんな個性強すぎるって。そんなことを思いながら、俺もさっさとラーメンを片付けることに集中した。

「二人は昔からの友達なんだ?」
ラーメン屋を出た俺たちは、大通りへと戻ってきていた。洋服屋やカフェ、雑貨屋などが数多く並ぶこの通りは、いつも多くの人で賑わっている。
「うん、璃瑠とは幼稚園からの付き合いだね」
「へぇ、それはすごいな。親友ってやつか」
「そうそう親友親友!ね、璃瑠〜」
「は、春音っ、恥ずかしいから抱きつかないでくれませんかっ」
春音に抱きつかれて赤面している小鳥遊さんでも、その顔は笑顔だ。
「・・・羨ましいな」
ポツリと漏らした言葉を春音は聞き逃さなかったらしい。小鳥遊さんに抱きついたまま、こちらに顔を向ける。
「水戸君にはいないの?幼馴染とか」
「いないなぁ・・・。俺、今回ので転校2回目だからさ」
「そうなんですの・・・その、最初の転校はいつ頃に?」
小鳥遊さんが、抱きつかれていることについてはもう諦めたらしく、首から春音をぶら下げながら聞いてくる。
「小学校のころで・・・5年生ぐらいの頃か。今から6年前だな」
ちょうど父親が出て行った頃だ。
「大変ですわね・・・」
「まぁ、昔の話だし・・・・それにあまり昔のことは覚えてないんだよ」
「そうなの?」
ようやく春音が小鳥遊さんから離れる。
「ああ、転校する以前の記憶はほとんどないな」
「あはは、水戸君って忘れっぽいんだね」
「そうみたいだ」
苦笑する俺に春音がいやらしい笑顔を浮かべる。
「なんか嫌なことでもあったんじゃないの〜?親に怒られたりだとか、好きな子にふられただとか」
「それぐらいで記憶なくすんだったら、世界中の人が記憶喪失だな」
「でもさー、やっぱ忘れたいほど嫌な思い出ってあるじゃない?」
あー、あるな。つい昨日のことだが。
「忘れたくて忘れたいのに、そんな思い出ほどなかなか忘れられない」
そこでにっこりと笑顔。
「本当に忘れられたらいいのにねー」
そうだな、と相槌を打ちつつ、
「春音みたいな能天気な奴が嫌な思い出を持ってることに驚きだよ」
「えーっ、なによそれどーゆー意味っ!」
分かりやすく頬を膨らます春音の横で小鳥遊さんが静かに口を開く。
「水戸君、春音だってそこまでお気楽ではありません」
「だよねだよねっ」
「例えばですね、小学1年の頃、春音が体育倉庫で」
「ああーっ!それは言わないって約束でしょーっ!」
「え、何?春音が体育倉庫でどうしたって?」
「水戸君も聞かないーっ!」
「実はですね・・・」
「璃瑠―っ!!」

そんなこんなで夕方。あれからも俺はこの二人(主に春音)に振り回され(結局、二人の買い物に俺が付き合ったという形だった)、疲労困憊である。女性下着店に連れて行かれたときには、何故あの時全力で断らなかったのだろうと、海よりも深い後悔をした。
「楽しかったね」
「そうですわね。わたくしも楽しかったです」
「・・・・・俺は疲れたよ」
「た・の・し・かっ・た・よ・ね?」
「楽しかったです!」
「うん、それでよろしい」
そうこう言ってるうちに、待ち合わせ場所として有名な広場まで来た。
「じゃあ私たち車だから。水戸君は駅まで戻るんだよね?」
「ああ、ここからなら10分ぐらいだからな」
「それでは、水戸君、また学校でお会いしましょう」
「じゃあね〜」
「はいはい、またな」
春音と小鳥遊さんは待っていた車(メルセデスベンツ!)に乗り込む。車の窓から手を振っていたのが見えたので、手を振り返すと車は重低音を響かせ発進した。
(あ〜、本気で疲れた)
この広場からなら10分ぐらいで駅まで行けるが、その程度の運動も今の俺には辛い。なので俺は路地を通って近道することにした。

後になって思う。
もしここで俺が近道なんて考えなければ、
俺はまったく違う未来を歩んでいただろう、と。

「・・・・・しまった」
迷ってしまった。どんどん人気のないところに来てしまった。
「そうだ・・・俺は方向音痴だったんだ・・・」
いまさら気付いても遅い。すでに日は沈み、辺りは暗くなっていた。
「っと、そうだ。水無月に連絡するの忘れてた」
慌てて携帯を取り出すも電源は切れていた。そういえば最近充電してなかったからな。電源をつけると、水無月と怜莉と優莉の3人からすごい数の着信履歴が表示された。
「うわっ、やば」
返しの電話を水無月にかけようと携帯を操作しながら路地の角を曲がったとき、
それは俺の目に飛び込んできた。
路地のちょうど袋小路に女性が二人いた。一人はスーツを着たOL風、もう一人は長い金髪をまったく無造作にたらしている。金髪の女性がOL風の女性の正面から手を腰に回し、その首筋に顔を埋めていた。俺は最初、二人の女性が抱き合ってるように見えて、えらいものを見てしまったと思った。気付かれないように立ち去ろうとするも自然と視線はそちらに向いてしまう。
だから気付いた。
二人は抱き合ってなんかいない。
何故なら、
金髪の女性が顔を埋めているその首筋から、
真っ赤な血が流れていたからだ。
「・・・・・!」
啜ってる。
瞬時にその言葉が頭に浮かんだ。金髪の女性はOL風の女性の首筋に噛み付き、血を啜っている。
そんなわけがない、それじゃまるで、
吸血鬼じゃないか。
俺がそう思った瞬間。金髪の女性は首から顔を離し、
「お前、動くな」
とまっすぐ俺を見ながら言った。ビクッとする俺、気付かれた・・・!心臓が壊れたように早鐘を打っているのが自分でも分かる。蛇に睨まれた蛙のように、体がまったく動かなかった。
「まったく、久しぶりの食事で周囲の警戒を怠っていた。まさか見られるとはな」
金髪の女性が手を離すと、噛み付かれていた女性はその場に崩れ落ちる。それはまるで、命の通っていない人形のようだった。金髪の女性はまっすぐに俺のほうへ歩いてくる。
「ん・・・お前・・・?」
俺の前まで来ると、そう言いながら俺の顔を覗き込む。
「・・・・・・!」
金髪の女性はそこで何かを思い出したように目を見開いた後、明らかに狼狽した様子で、
「・・・・なんてこと・・・こんな・・・」
小さく呟き俯いた。俺は固まってしまって、彼女の様子の変化を見ていることしか出来なかった。
彼女は数瞬のあと、
「・・・・ふ・・ふふ」
俯いていた顔を上げ笑い出した。
「ふふふはははははっ!」
何も言えなくなっている俺の瞳を覗き込みながら、金髪の女性はまるで歌うように、狂ったように、その美しい声を汚い路地に響かせる。そう、もしかしたら俺は彼女に見惚れて動けなかったのかもしれない。そう思うほど、彼女は美しかった。
「そうだ」
金髪の女性はさっきとは打って変わった笑顔を見せる。
それは、なぜか、泣いているかのような笑顔に俺には見えた。
「お前が見たとおり」
金髪の女性はまるで世間話でもするような気軽さで、
「私は吸血鬼だ」
と言った。
「・・・・・・」
俺は何も答えられない。思考も停止していた。そんな俺に構わず、金髪の女性―吸血鬼はしゃべり続ける。
「信じられないか?まぁ、無理もない。だが、お前が見たものが真実だ」
吸血鬼はそう言いながら笑う。そのとき気付いたのだが、その瞳は爛々と紅く光っていた。
「私は人の血を啜る化け物だ」
「・・ば、化け物・・・」
ようやく動いた俺の口はそんな言葉を紡いだ。
「そうだ、化け物だ。私が怖いか?恐ろしいか?お前は今何を感じている?」
それは自分でも分からなかった。俺は今、この状況で、一体、何を、感じているのだろう。
「・・・・お前に選択肢をやろう」
そこで一瞬、吸血鬼の顔に何かの感情がよぎったような気がした。それは悲しみか、後悔か、苦しみか、憂いか、怒りか。
「一つは、このままここで見たことを誰にも話さないと誓い、おとなしく家に帰ること」
そこで吸血鬼は一旦、言葉を切る。
「二つ目は」
吸血鬼はその赤い瞳に俺を映しながら、
「私と同じ化け物になること」
そう、言った。

その言葉は何故かすんなりと俺の中に入ってきた。
「吸血鬼は人間をはるかに超える身体機能を持ち、寿命も人間の比じゃない」
俺は何も考えずに吸血鬼の言葉を聞いていた。
「血を飲まなければいけないというリスクはあるが、それも馴れの問題だ」
吸血鬼は流れるように、その美声を紡ぐ。
「それに何より、自由になれる」
自由・・・・。その言葉に俺の中の何かが強く反応する。
「人間社会のしがらみから解放される。もちろん、社会の中で暮らそうと思えば、それなりの束縛が生じるが、微々たるものだ」
吸血鬼は両手を横に広げ、唇の端を持ち上げる。
「・・・・さぁ、どうする?このまま人間として一生を終えるか、それとも恐れられ、蔑まれ、疎まれる化け物となり、長いときを過ごすか」
「・・・・・・」
何故、こんなことになったのだろう?
今日、俺は普通に起きて、朝食をとり、怜莉と話して、街に出掛け、春音と小鳥遊さんに会って、そのまま何事もなく家に帰って、水無月とぎこちない会話をして、弥生さんにからかわれ、優莉に振り回され、そして普通に眠る、そんな一日を送るのではなかったのか?
もしかしたら、俺は夢を見ているのか。そう思えるほど、この状況は突飛で、現実感がなかった。
けれど・・・・、今俺の頭で渦巻いているこの思いはなんだろう?俺の心のどこかが何かを強く欲している。
「さぁ、お前はどっちを選ぶ?このまま人間でいるか、それとも・・・・・人間を捨てるか」
きっと俺の葛藤は、傍から見れば10秒にも満たなかっただろう。だけど俺の中ではそれは無限にも等しい時間だった。実際は葛藤していたわけでもなかった、悩んでいたのでも、迷っていたのでもなかった。ただ自分を覆う殻を一枚一枚剥いでいただけ。全ての仮面を捨て去った俺は、未来を決める言葉を紡ぐ。

「・・・・俺は人間でいることに未練なんかない。俺も・・・・・化け物にしてくれ」

いま、このとき、俺の未来は決定的に、
変わった。

俺がそう言うと、吸血鬼は、安堵か落胆か、喜びか悲しみか、複雑な表情を浮かべ、一瞬後には微笑を浮かべていた。
「・・・・・分かった。お前の望み叶えてやろう」
そう言った吸血鬼は体と体が触れ合ってしまう距離まで近づいてきて、おもむろに俺の頭を両手でがっちり掴む。
「・・・・・おい?」
何故か吸血鬼は顔を赤らめて、
「・・・・・・・動くなよ」
その言葉とともに、美しい金の鬼は、
俺の唇と自分の唇を合わせてきた。それと同時に生暖かい液体が俺の口に流れ込んでくる。これは・・・・血だ。思わずむせ返ろうとする俺を、吸血鬼はその舌でそれを許さない。
(う・・・わ・・・俺初めてだ・・・・・)
そんなことを考えたのを最後に、俺の意識はぷっつりと途絶えた。

「何でこんなことをした!」
「・・・・別に責められることはしていない。ちゃんと協定も守っている」
「だとしても!何故由宇人を吸血鬼にした!私は彼を吸血鬼にするためにお前を呼んだわけではない」
「正造、いい加減にしなよ。確かに彼女は罰せられることは何もしていないんだ。それに・・・・これは彼が選んだことなんだから」
「それは分かっている!・・・分かっているが・・・」
誰かの言い争いが聞こえる。意識が覚醒していくにつれ、それは正造さんと真さん、それにあの吸血鬼だということが分かった。俺はゆっくりとまぶたを開く。
「・・・何を喧嘩してるんですか」
俺がそう言うと正造さんは弾かれたように俺が寝ているベッドに駆け寄ってきた。
「由宇人!大丈夫か?」
「ええ・・・俺は大丈夫です。それより、知り合いなんですか?・・・その人と」
正造さんたちは知っているのだろうか?彼女が・・・・吸血鬼だと。俺がそう問いかけると正造さんは首肯した。
「ああ・・・・彼女が吸血鬼だということも知っている」
「そう・・・ですか」
「そんなことよりも、由宇人君。君は・・・・・」
真さんが真剣な表情で何かを言いかけ、口を噤む。聞かれていることが何なのか分かったので、俺は真実を告げる。
「はい・・・俺は吸血鬼になりました」
「・・・・・」
俺の言葉で場が沈黙に包まれる。俺はそれ以上は何もしゃべらない、言うべきことは言ったからだ。いや、本当は何も言えなかったからだ。
その沈黙を破ったのは金髪の吸血鬼だった。
「そういうことだ。正造、どうせこいつには何も知らせていないんだろう?なら私から話してもいいか?」
「・・・・ああ、頼む」
正造さんは重々しい表情をしている。それを見てようやく俺は、もしかしたら吸血鬼になることはしてはいけないことだったのだろうか、と思い至った。その決断をしたときには他人のことなんてまったく考えていなかったから、こういう反応が返ってくることなんて予想もしなかった。俺は正造さんに対して恩を仇で返してしまったのだろうかと不安になる。
「自己紹介からはじめようか。私の名はエルリア、星織家お抱えの吸血鬼だ」
「・・・星織家お抱えの吸血鬼・・・・?」
「まずお前には吸血鬼のことから話したほうがいいな」
そう言って金髪の吸血鬼―エルリアは滔々と吸血鬼について話し始めた。

吸血鬼がいつ発生したかは分からない。今確認されている最古の吸血鬼は約1000年も前らしい。
詳しく言うのなら吸血鬼とは一個の生物ではなく、ある特殊なウイルスに感染した人間を指すらしい。その症状は人によって様々で、人間にあるまじき能力を持った者もいる。
だがそのほとんどに共通するのが、人間に対して吸血行為をしなければいけないというものである。
「個体差はあるが、私は1週間に1度は血液を摂取しないと、急速に体が崩壊していく」
そして各吸血鬼の性質は受け継がれていくらしい。例として、身体能力の高い吸血鬼が人間を同族にすると、それにも同じ能力が発現するらしい。
「人間を吸血鬼にする方法は一つだ。人間に吸血鬼の血を一定量与えればいい」
「ああ・・・・あのときのアレはそういう意味だったのか」
「・・・アレ?エルリア、君、いったい由宇人君に何をしたんだい?」
「聞くな。お前も忘れろ」
昔は吸血鬼に対する法などなく、それぞれ吸血鬼はやりたい放題だった。それによる事件も後を絶たなかった。
「そこで初めてアーネリアが吸血鬼のための法律を作った」
ヨーロッパ、地中海沿岸にあるその小国は世界で唯一吸血鬼に人間と同じ権利を認めている国だ。そんなアーネリアを治めているのがリーレル王家、吸血鬼の保護をずっと世界に向けて訴え続けている。
「世界的には吸血鬼など存在していないことになってる。事実、お前もそんなものの存在を知りはしなかったのだろう?」
今確認されている吸血鬼の数は約1万ほどでその60パーセントがアーネリアで暮らしているらしい。その存在を他国の一般人に漏らしてはいけないという法律もアーネリアにはある。世界各国も吸血鬼の存在を知りながら、隠匿し続けている。それを知り得るのは、ほんの一握りのお偉方だけらしい。
「吸血鬼になったら必ず協定に同意しなくてはならない。それをしないやつは研究所で実験体となる」
協定とは、野放しだった吸血鬼を縛るため、200年前のアーネリアが作り、今では世界共通のものとなっている。
新しく吸血鬼になったものはすぐに協定に登録をしないといけない。
「協定にはいろいろなルールがある。後でちゃんと目を通しておけ」
吸血鬼になるとまた新しく籍が与えられる。基本的に吸血鬼は老化しないため、定住するのが難しい、もちろんアーネリアは別として。
「今私を所有しているのは星織家だが、大抵は国に所有権がある」
吸血鬼は国から様々な援助を受けながら、見返りとして国の要望にこたえなくてはならない。
「昔はともかく、今は吸血鬼を実験の道具にはしない。まぁ、重罪を犯せばその限りではないが」
昔はもっと多くの吸血鬼がいて、人間との間に戦争まがいのことまであった。
「吸血鬼はその生涯で、一人しか同族を作れない」
それ以上吸血鬼を作ることは協定に違反し、罰を受けることになる。さらに人間を吸血鬼にするには、その相手がそれに同意していなくてはならない。これを破った場合も同様である。
「人間の血を吸うときも、一般人に気付かれないように、健康に支障を与えない程度の量だけを摂取しなくてはならない」
吸血行為で人間を死なせた場合、または重度の障害を与えた場合も罰せられるらしい。
「とまぁ、こんなものだな。何か質問はあるか?」
「・・・いや、今のところはない」
「後で聞きたいことがあったのなら、正造か真に聞け」
しかし、こんな話を聞いた後でもいまだに信じられない。吸血鬼なんて物語の中だけの存在だと思ってた。それが今や、自分自身がその存在だ。
「正造さん」
「・・・・なんだい?」
「怜莉と優莉・・・水無月と弥生さんはこのことを知っているんですか?」
「・・・・・・・・弥生と水無月は知っているが、あの二人には言っていない。怜莉と優莉には成人したら教えるつもりだった」
「つまり、俺のことも秘密にしなければいけないんですね」
「ああ、そういうことだ」
「分かりました。それだけ聞きたかった」
俺は一息つく。自分の体を眺めるが、どこも変わった様子はない。
「えっと・・・エルリアさん?」
「呼び捨てでいい」
「・・・・エルリア、俺は本当に吸血鬼になったのか?何も変わってないように思うんだが」
俺がそう聞くと、エルリアは何故かにやりと笑う。その笑みに背筋が寒くなる俺。
「人間が吸血鬼になるには、個人差はあるが約1ヶ月以上かかる」
「・・・・じゃあ、俺はまだ人間なのか?」
「半分人間で、半分吸血鬼といったところだな。血を摂取するときには吸血鬼化する。その時以外は人間と変わらない」
「この状態でも血は必要なのか?」
「必要なんてものじゃない、1日に1回は血を摂取しないと、死ぬぞ」
「う・・・・マジかよ」
まさかそんなにシビアなものだとは思わなかった。じゃあこれから俺は人間の血を飲むのか・・・?うわぁ、やだなあ。
「なぁ、エルリア。人間の血って美味いのか?」
「今では美味いと思えるが、なりたての頃は、死ぬほどいやだったな」
だが飲まないと死ぬからな、と言うエルリア。俺は自分が他人の首筋に牙を打ちたてているシーンを想像する。とてもじゃないがそんなことは出来そうもない。
「生き血じゃないとだめなのか?」
「いや、そんなことはない。輸血パックでも一応命は保てるはずだ」
俺の質問に返ってきたのは予想に反して否定の答え。それなら何とかなるだろうと思っていたら、エルリアが真剣な表情で口を開く。
「だがそれだと吸血衝動は完全には抑えられない。特に吸血鬼になりたての頃は、吸血衝動に負けて、人間を襲うものも多い」
そう語るエルリアの顔は、重く沈んでいた。俺はエルリアの表情からこれがひどく重要なことだと思い知った。
「分かった、覚悟する」
「そうしろ。知っているのと知らないのとでは大分違うからな」
「由宇人君。血液パックは冷蔵庫に入れておいたから」
そう言って真さんが指差したのは俺の部屋の隅に置かれた冷蔵庫だった。ジュースなどと一緒に血のパックが置かれているのはえらくシュールな光景だ。
「由宇人、今日はもう寝たほうがいい。もしも調子が悪くなったら、水無月か弥生を呼ぶんだ・・・彼女たちにはもう事情を説明したから」
「・・・・・はい、分かりました」
彼女たちはそれを聞いて、一体どんなことを思ったのだろう。俺は一体どんな顔をして彼女たちに会えばいいんだろう。
お休みと言って、正造さんと真さんが部屋から出て行く。彼らは終始、気遣わしげだった。余計な心配をかけたな、と胸が痛む俺。
「私もしばらくの間この屋敷に滞在する。東の塔だ、用があるのなら来るがいい」
「分かった」
俺が頷くとエルリアは少し悲しそうに笑って、
「・・・・後悔していないか?」
そう聞いてきた。俺は即座に返す。
「してないよ」
俺の答えに複雑な表情をするエルリア。俺はその表情がどんな感情に起因するものなのか分からない。
「・・・・覚悟しておけよ」
そう言い残してエルリアも部屋を出て行く。一人になった俺はベッドに体を預ける。今日がいろいろなことがありすぎて疲れた。目を閉じるとすぐに睡魔がやってくる。眠りの中へ落ちていく俺。

そのときの俺は、エルリアの最後の言葉の意味を真に理解していなかった。

それは突然だった。
「ぐう・・・あ・・!」
突然の激痛で目が覚めた。何か夢を見ていたような気がするが、もうほとんど思い出せなかった。
「う・・・が・・・」
絶え間ない激痛が俺の体を襲う。まるで全身が引き裂かれているような痛みだった。
「あ、ああああああ!」
頭が割れるように痛い。頭に手をやると、髪の毛が急速に伸びていた。体のほとんどに血管が浮かび上がっている。爪もどんどん伸びていった。
痛い、痛い、痛い。
苦しい、苦しい、苦しい。
「由宇人様!」
突然ドアが乱暴に開かれたと思うと、水無月が入ってきた。だが今の俺には、そんなことを気にする余裕などなかった。
「ぐあああ!」
「由宇人様!由宇人様!大丈夫ですか!由宇人様、しっかりしてください!」
水無月が俺の体を揺する。そこでようやく俺は水無月の存在に気付いた。
「あ、あ・・・水無月・・・?」
「由宇人様、今正造様たちをお呼びしてきます!」
立ち去ろうとした水無月の腕を俺の手が掴む。
「え・・・・・由宇人様?」
びっくりしたような水無月の表情。水無月が何か言っている。だけど俺には何を言っているのか分からない。それどころか水無月のことも分からなかった。
水無月。
みなづき。
・・・・みなづきって・・・・・誰だ?
これは・・・・・なんだ?
エサダ。
頭の中が疼く。
エサダ。
痛みがさらに増す。
エサダ。
舌が歯に触れる。その歯は鋭く尖っていた。
ムサボレ。
餌の首を見る。その首は透き通るように白かった。
ムサボレ。
俺は餌の体を抱き寄せると、
「ゆ、由宇人様・・・・?」
その首筋に、噛み付いた。
「あ、あ」
血を貪るように飲む。
飲めば飲むほど体の痛みが消えていく。
ああ、美味い。
血で渇きを潤す。
気持ちがいい。
最高に気持ちがいい。
餌が呻いてるが、そんなのは知ったことではない。
このまますべて飲み干して・・・。

「あ、あああ、ゆ・・・ゆう・・とさ・・・ま」

「・・・・あ」
俺は水無月の首から口を離す。途端に倒れこんでくる水無月、その口からは荒々しい息が漏れている。
「あああああ」
俺は何をしていた?俺は水無月に・・・・・何をしていた?
「ああああああああああ!!!」
俺は、なんてことをした!
(「・・・・・覚悟しとけよ」)
エルリアがああ言った意味がやっと分かった。エルリアはちゃんと忠告してくれたのに、俺は、俺は、俺は・・・!
「・・・・・やっぱりこうなったか」
「エルリア・・・・」
いつの間にかエルリアが扉にもたれて立っていた。エルリアがこちらに歩いてくる。その顔には、何度か見せたあの悲しみの表情を浮かべていた。
「・・・大丈夫だ。これなら命に別状はない」
「・・・・・よかった・・・・・」
心底安堵する俺。だがすぐにその安堵も激しい後悔に打ち消される。
「う、うううう」
胸に楔を打ち込まれたように痛む。俺は、この手で、大切な人を、傷つけてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
さっきまでの激痛はきれいさっぱり消え、代わりに体が驚くほど軽く感じていた。
それはきっと、水無月の血を飲んだから。
「・・・・エルリア、水無月を頼む」
「おい、どこへ行く!」
エルリアの声も無視して俺は部屋から駆け出る。そのまま廊下の窓を開けて、そこから飛び降りた。3階建てに匹敵する高さだったが。こともなげに俺は着地する。
逃げるように一心不乱に庭を駆ける。いや、ようにじゃない、俺は逃げていた。
あっという間に庭の南東に位置する池に着いた。池まで全力疾走したというのに、俺の息はまったく切れていなかった。
(本当に、俺はもう人間じゃないんだ)
水面に俺が映っている。髪は肩の辺りまで伸び、その瞳は爛々と赤く輝いていた。
「くそぉ!」
しゃがみこんで地面を殴る。まるで豆腐を殴ったかのようにたやすくこぶしが突き刺さる。
「くそ、くそ、くそ!」
覚悟していた。覚悟していたつもりだった。
「くそ、くそ、・・・・・くそぉ・・・・」
覚悟なんてできているわけがなかった。俺は、吸血鬼に成るということをまったく分かっていなかった。
俺は化け物なんだ。人の生き血を啜る化け物なんだ。
「・・・あ、ああ、ああ」
涙が出てくる。もし、あのまま血を吸い続けていれば、水無月は・・・・・。
「・・・・・後悔してるのか?」
背後からエルリアの声がする。エルリアが近づいていたのは分かっていた。
「・・・・・分からない」
「・・・・」
「もう何がなんだか分からない・・・・!」
搾り出すように声を出す。
俺はきっと生きることに疲れていた。母さんと朱里が死ぬ前から、俺は生きることに疲れていたんだ。人と付き合うのも面倒だと思っていた。一人のほうが居心地が良かった。何度も死にたいと思ったことがある。そんな俺だから人間になんか未練はなかった。
けれど、ここに来てから感じていた暖かいもの。みんな俺を優しく受け止めてくれた。もしかしたら、俺も生きることを楽しめるかもしれない、幸せになれるかもしれない、そう思ったときもあった。
そんなのは全部幻想だった。
俺は水無月を傷つけた。結局、俺は最低の人間だった。
いや、もう人間ですらないのだ。
こんな俺に生きる資格なんてない・・・。
「なぁ、エルリア」
「・・・・・何だ?」
「どうしたら俺たちは死ぬ?」
「・・・・・・私たちは自然治癒能力が著しく高い。大抵の傷なら一瞬で治る。だが頭を切り離されたり、脳に大きな損傷を受ければいくら傷の治りが早くても、死ぬ」
「じゃあ、ビルの屋上から頭から落ちれば、死ねるのか」
「・・・・お前、死のうと思ってるのか?」
「・・・さぁ、どうだろうな・・・」
沈黙するエルリア。実際、俺は自分が何をしたいのか分からなかった。死にたいのか、それとも、死にたくないのか。生きたいのか、それとも、生きたくないのか。
「水無月が目を覚ました」
エルリアは突然そんなことを言う。どうやらエルリアは屋敷の中の音まで聞こえるらしい。
「お前の名を呼んでいる」
「・・・・・ああ」
俺はおもむろに立ち上がり、屋敷の方へ歩き出す。そんな俺をエルリアがじっと見つめてくる。何故か、その顔は泣きそうに見えた。
「・・・・・カトレア・・・・」
吐息のようなその小さな呟きは、夜風に吹かれてかき消えていった。

俺は来たときと同じ道を通って部屋に戻る(2階の窓へと軽々ジャンプすることが出来た)。
俺が部屋に入ると、水無月がちょうど俺のベッドから這い出ようとしているところだった。
「由宇人様・・・・」
俺は無言で水無月のほうへ歩いていく。俺の顔は俯いていた、怖くて水無月の顔を見れなかったからだ。
「あの、申し訳ございません。私、気を失ってしまったみたいで、由宇人様のベッドを占領して」
「ごめん」
「え・・・」
水無月の言葉を遮り、謝罪の言葉を口にする俺。
「ごめん、水無月。ごめん・・・・」
「あ、あの由宇人様?どうして謝っているのですか?」
「俺は君を傷つけた」
胸がとても苦しかった。その苦しみから逃れようとするかのように言葉を連ねる。
「君の首に牙を打ち立てて・・・・・・血を、啜った」
「い、いえ、あの、私はこのとおり大丈夫ですから」
そう言いながら立ち上がろうとする水無月。しかし、すぐにバランスを崩し倒れこもうとする。俺は一瞬で水無月に駆け寄ると、その細い体を受け止める。近くで見る水無月の顔は血の気を失っており、呼吸も苦しげだった。俺の胸が一段と痛む。
「・・・・ごめん。こんな風にしたのは俺だ。俺のせいだ・・・・!」
「ゆ、由宇人様、それは」
「一歩間違えれば死んでいたんだ!・・・・俺が水無月を殺していた・・・・」
「・・・由宇人様」
「ごめん、ごめん、ごめんなさい・・・・」
俺は水無月の華奢な体を抱きしめながら、慟哭した。少しでも力を加えれば、この吸血鬼の腕は容易く水無月の体をへし折るだろう。俺は自分が吸血鬼に成ったことを一段と実感する。
「由宇人様、聞いてください」
水無月が、思い切ったように口を開く。
「・・・・・・」
「私が、あなたの部屋に行ったのは、あなたに血を吸ってもらうためなんです」
「え・・・・?」
「優しいあなたのことだから、他人の血を吸うなんてこと出来ない。でも、私なら、あなたに血を吸われても平気だから」
「・・・なんで、なんでそこまで・・・・・?」
「それは・・・・内緒です」
そう言ってにっこりと微笑む水無月。その笑顔は俺が今まで見てきたどんな笑顔よりも綺麗だった。
「だから、由宇人様が気に病むことはないのですよ」
「・・・・・だけど」
俺が君を傷つけたことには変わらない、と言おうとしてその口を水無月の指で止められた。唇に触れている水無月の人差し指の感触に顔が熱くなる。
「じゃあ、一つだけ私のお願いを聞いていただきますか?」
水無月はそこで悪戯っぽく笑って、
「由宇人様はこのことを気にしないでください」
「そんな・・・」
「お願い、です」
「・・・・分かった・・・・・・・水無月、ありがとう」
俺は水無月の体を抱きしめながら、何度もありがとうと言う。水無月はそんな俺の頭を優しく撫でていてくれた。