「お前はどっちを選ぶ?」
目の前にいる、人間の形をした人間ではないものが俺に問いかける。俺は一瞬何かを答えようと口を開きかけたところで、しかし何も答えられずに口を噤んだ。
再度それは俺に問いかける。
「このまま人間でいるか、それとも・・・・・・・」
それは間をおき、
「人間を捨てるか」
俺は何も考えられずにいた。けれどひとつだけ分かっていることは、今俺は俗に言う運命の分かれ道とやらに差し掛かっているのだろうことだけだった。
目の前にいるそれは薄く微笑んだまま、じっと俺を見つめてくる。その表情からは何を考えているかまったくうかがい知れない。
「・・・・・・・・・・・」
俺はずっと黙っていた。そう、多分この時点で俺の答えは決まっていたんだと思う。ただそれを口にすることに恐怖を感じていたのだ。
「・・・・・・・・・・・」
俺の望み。俺は今までの自分の人生を何とはなしに思い出していた。走馬灯にように流れていく俺の記憶。記憶が今に向かえば向かうほど、俺の心がクリアになってくる。後に残るは虚無。
「・・・・・・・・・・・」
俺はそれを見る。人間の形をしているけれど、人間ではない化け物。それは薄く微笑んで俺の答えを待っている。
「・・・・・・・・・・・」
俺の頭は真っ白になっていた。しかし、もう心は決まっていた。それは答えを待っている。
「・・・・・・・・・・・」
俺は黙っている。それは答えを待っている。
「・・・・・・・・・・・」
俺は黙っている。それは答えを待っている。
「・・・・・・・・・・・」
俺は黙っている。それは答えを待っている。
「・・・・・・・・・・・」
俺は黙っている。それは答えを待っている。
「俺は・・・・」
俺はついに口を開いた。そして言う・・・、俺の答えを。
目の前のそれ・・・薄く微笑んだ吸血鬼へと。


『プロローグ』

交通事故だった。
信号を無視して突っ込んできたトラックに撥ねられて、俺の母親と妹は死んだ。即死だったらしい。俺が連絡をうけて病院に駆けつけたときには、二人はただの物言わぬ肉塊になっていた。
父親は俺が物心つく頃に家を出ており、よって俺はこの世で一人になった。親戚に頼ろうとは思わなかった。もともと親戚とのつながりは薄かったし、迷惑をかけたくもなかった。
俺の母親はこつこつと俺と妹の大学までの学費を貯めていてくれたらしく、当分の間は金に困ることもなかった。
俺は二人が死んだ日の夜、俺は一睡もできなかった。
何をするでもなく、何を考えるでもなく。
悲しいと言う気持ちも、寂しいという気持ちもなく。
気がついたら、俺は何事もなかったように動いていた。
俺は母親が残してくれた金を使って二人のために小さな葬式を開き、奨学金を申請して今までと同じように日々をすごしていった。クラスメイトも最初は俺に同情の言葉をかけていたが、時が経つにつれ、そんなこともなくなっていった。
俺も何も変わらなかった。
ただ、確実に俺の心の中心には大きな穴が開いていたんだと今になって思う。
そして1ヶ月が経ち、俺の高校1年が終わりを迎える頃に一人の青年がやってきたことから、この物語は始まった。

「水戸 由宇人君だね?」
突然俺の家にやってきたスーツを着た男は開口一番そう言った。眼鏡をかけた20代後半に見える男だ。
「上がらせてもらってもいいかな」
「・・・どこの誰だかわからない人を家に上げるわけにはいきません」
これは失礼を、と言って男は俺に名刺を渡してきた。その名刺には「星織財団総帥秘書  幸崎 真」とあった。
「・・星織財団の人が何の用です?」
俺はいぶかしむ。星織財団といえば日本有数の財力と権力を持ったグループだ。いくつもの分野でトップの業績を上げており、日本では知らぬ者はいないとまで言われている。そんな雲の上にいるようなところにいる人間が一体全体俺に何の用があるというのだろう。しかも、総帥秘書ということは実質、星織財団の一番偉い人の側近である。当たり前だが、そんな人と接点などあるわけがない。 
「それは中に入ってからゆっくり話そう」
「・・分かりました。どうぞ」
俺がそう言うと、男―幸崎さんは中に入ってくる。幸崎さんを居間に通して、俺はお茶を出した。
「あ、おかまいなく」
と、言いながら幸崎さんはお茶をすする。
「で、用件は何ですか?」
俺が早速切り出すと、幸崎さんは真剣な顔になり口を開いた。
「長ったらしいのは好きじゃないんでね、単刀直入に言うよ。星織財団総帥星織正造が君を養子に迎えいれたいと言っている」
「・・・・・」
・・・・・何を言っているのだ、この人は。最初、俺はこの人が何を言っているのかさっぱり分からなかった。養子?誰が誰を?
「・・・・は?」
俺はそう返すのが精一杯だった。
「何を・・言っているんですか?」
「これは嘘でも冗談でもない。いたってまじめな話だ。僕はよく人から、お前にはやる気と覇気と熱意が足りないと言われるけど、こんな場面で冗談は言わない。もう一度言うよ。星織正造は君を養子に迎え入れたいと言っている。君の親戚の了承はもらってあるし、すでにあらゆる手続きの準備は完了している。後は、君が首を縦に振れば、君は星織家の養子となる」
さらに念を押された。俺は真っ白になった頭で、やる気も覇気も熱意も全部同じ意味なんじゃないかと考えていた。そんな頭でも幸崎さんの言葉を鵜呑みにしてはいけないと考えるだけの冷静さは残っていた。
「あ、疑ってるね?」
「・・・・・当たり前です」
どこの世界に、あなたは今日から超大金持ちの養子だ、なんて言われて、はいそうですかそれはとてもうれしいですなんていう人間がいるだろうか。と考えて、いや、もしかしたら結構いるかもしれないなと考え直す。混乱してるな、俺。
「何で・・・・俺なんですか?理由がまったく分からないんですけど」
当然の疑問だ。何の接点もない人間からそんなことを申しだされるはずがない。どんなご都合主義だ。理由があるのならぜひ聞きたい。
「それはね・・・」
もったいぶる幸崎さん。俺は固唾を呑んで幸崎さんの言葉を待つ。
「僕は知らないんだ」
「今すぐ帰ってください」
間髪いれず言った。
「仕方ないじゃないか。知らないものは知らないんだから」
開き直る幸崎さん。この人はそんな一番重要なことも知らずに養子の話を持ってきたのかとあきれる俺。ふぅと短く息を吐く。何にせよ俺の返事は決まっている。
「申し訳ありませんが、その話、断らせていただきます」
きっぱりと言う。俺には、顔も知らない人間と一緒に暮らすなんて考えられない。
しかし幸崎さんは真剣な顔をしながら、俺に問いかける。
「じゃあ君はこれから先どうするんだい?」
「・・・・・普通に高校に通いますよ」
「違う。もっと先のことだ。高校を卒業して君はどうするんだい?大学に進むのか、それとも働くのか。どっちにしろ君一人では何かと苦労するんじゃないのかな」
俺は言葉に詰まった。そんな先のことはまったく考えていなかった。確かに今はいいだろう、しかし、貯えも俺が高校を卒業するまで保つかどうかも分からない。それに一人で暮らしていくための諸手続きも俺には分からない。俺は今更ながら、自分が危機的状況にいることを理解した。
「よし、わかった」
突然声を上げる幸崎さん。俺はこれからどうしたらいいのかを悶々と考えていたので、幸崎さんが何を分かったのか分からなかった。
「そこまで言うのなら直接会えばいいじゃないか」
そう言うと、幸崎さんは立ち上がり、俺の手を取って玄関へと向かう。
「ちょっ・・どこに連れて行く気ですか!」
俺が声を荒げると、幸崎さんは俺のほうを向いて笑いかけた。
「君があんまり駄々をこねるから、手っ取り早く正造に会わせたほうがいいかなと思って」
「俺は断ったじゃないですか!手を離してください!」
ヒョロヒョロした外見に似合わず、幸崎さんは強い力で俺の手をつかんで離さない。幸崎さんは玄関を抜けると、ポケットから取り出した鍵でしっかり施錠した。
え、ちょっと、何でこの人がうちの鍵を持ってるんだよ?
「離してください!これは犯罪ですよ!誘拐だ拉致だ!うわっ」
幸崎さんはうちの駐車場に停めてあった(勝手に!)青いビートルの助手席に俺を投げ込むと、自分は運転席に乗り込みビートルを発進させた。
「降ろしてください!警察に通報しますよ!」
わめく俺を完全に無視する幸崎さん。
「ここからなら約2時間といったところだね」
幸崎さんはそう言ってカーステレオをつけた。聞こえてきたのはビートルズだった。

「着いたよ」
幸崎さんの言葉に目を開く俺。ビートルの中は延々とビートルズばっかりかかっていて、退屈した俺は窓に頭を持たれ眠っていた(ほとんど知らない他人の幸崎さんと車の中で二人っきりという状況に耐えられなかったというのが本音だ)。
「・・・うわ」
俺はつぶやく。今まさに俺の目の前にあるのは庭だった。たぶん庭だろう。自信ない。もしかしたら森林公園かもな。広さが半端ない。つか、学校の校庭より遥かにでかい。比べ物にならない。日本に土地がないってのは真っ赤なうそだったみたいだ。豪奢な飾りがほどこされた塀もどこまで続いているのかまったく分からない。
「着いたといってもここから屋敷まで10分以上かかるけどね」
庭の移動に時間がかかるなんて聞いたことがない。やっぱりあるとこにはあるんだな、と俺が資本主義の弊害である所得格差について考えていると
「ほら、ついてきて」
俺は無言で幸崎さんの後を歩く。どうして俺はこんなところにいるのかという疑問が頭の中を巡る。本当なら今頃は、休日であることを幸いに家でだらだらしているはずなのに。突拍子もないことのせいで思考が停止していたみたいだ。俺はここに来てようやく冷静さを取り戻した。けど帰ろうなどとは思わなかった。自分から何かをしようという気力が俺にはもうなくなっていた。
俺と幸崎さんが黙々と庭の中を歩いていると、やっと屋敷が近づいてきた。庭が庭なら屋敷も屋敷だった。屋敷は洋館風であり、中心がドーム型で、そこから左右に長方形に屋敷が伸びているといった形だ。屋敷から左の方向(つまり西)に300mぐらい離れたところに離れと思わしき家(といっても日本の平均一戸建て住宅よりはるかにでかい)が建っており、反対の右側(東)には何故か馬鹿でかい塔が立っている。
離れの近くにはデパート規模の駐車場があって、そこに大きいトラックが停まっていた。それらを見ていると、ここが日本なのかどうか疑わしくなってくる。つかたとえヨーロッパでもここまでの規模の屋敷はないだろう。なんか屋敷というよりは城といったほうが近い。
幸崎さんは屋敷の玄関に近づくと、懐からカードを取り出して、それを玄関の扉(ちなみに俺の身長の2倍近くある)脇にあるスリットに通した。すると重々しい音を出しながら扉が左右に開いていく。扉が開いた先は、吹き抜けのある、一流ホテルのロビーに匹敵する広さのエントランスだった。左右と奥に扉がある。前方には左右から弧を描きながら階段がありそれが二回の廊下に繋がっている。
「ここでちょっと待ってて」
と言って幸崎さんは俺を残してどこかへ行ってしまった。所在なさげに俺がふと視線を上にやると、そこには、
二人の少女がいた。
二人の少女はとても似ていた。最初は同じ人間が二人いるのかと思ったほどだ。違うのは髪形ぐらいで容姿はまさに瓜二つだった。その二人の少女は、エントランスに突き出た形の二階の廊下部分にあるバルコニーに立っていた。
二人とも長い金髪で、青い瞳で俺を見ていた。その高貴な雰囲気から、俺は彼女たちが星織家の人間であると推測した。
何故だか、彼女らを見た時、不思議と、切なくなった。
彼女たちは俺にじっと視線を向けてくる。居心地の悪さを感じ、俺は視線をそらす。彼女たちは俺のことを知っているのだろうか?普通に考えれば知らないわけがない。養子を迎えいれるなんて重大な話を家族にしないわけがない。
「・・・・・・・・・」
二人は一言も話すことがないまま、じっとバルコニーから俺を見下ろしていた。歓迎している雰囲気ではない。当たり前だ、見知らぬ人間をいきなり養子にするなんて喜ぶほうがどうかしている。
まぁ、俺はどんな理由があったとしても、この話は断るつもりなので彼女たちの心配は杞憂に終わるのだが。と俺がいたたまれない気持ちを抱えながら彼女たちのほうを見ないようにしていると、声が響いた。
「由宇人君!こっちこっち!」
見ると、幸崎さんが向かって左側の階段にいた。そしてもう一度バルコニーのほうを見ると、もう二人の金髪の少女は消えていた。
もしかして俺の幻覚だったのか?
そう思うほど突然いなくなっていた。
「ごめんね、ちょっと用事があって。いやー、意外と荷物が多くて」
別にその用事がなんであるかまったく興味がなかったので、俺は幸崎さんの言葉を聞き流していた。それに俺の頭の中を占めていたのはさっさと家に帰りたいと思う気持ちだけだった。後になって俺は、その時にもっと突っ込んで聞いていればどうなっていただろうか、と思った。
「じゃあこっちについてきて」
言われるままに俺は幸崎さんの後をついていく。階段を上り、ちょうど玄関の正面に位置する扉をくぐる。扉の向こうは直線の廊下となっていた。左右に絵や彫刻が置いてある。その廊下を進むと、豪華な扉があった。
「この先だよ」
俺は今になって緊張をしていた。この扉を抜ければ、世界でも有数の資産家である星織正造がいるのだ、俺みたいな平凡な高校生が会える人物ではない。ゆっくりと幸崎さんが扉を開く。
「やぁ、よく来たね」
扉を開いた先にはちょうど学校の教室ぐらいの広さの部屋があった。左右を本棚で埋め尽くしてあり、中央にはテーブルとソファ。窓際に大きなデスクがあった。そこに座っていたのが、
「はじめまして・・・になるのかな。星織正造だ、よろしく」
星織財団総帥 星織正造だった。俺はもっと年をとった老人を想像していたのだが、予想に反してそこにいたのは30後半ぐらいに見える男性だった。
「あ・・・その・・・・はじめまして。水戸由宇人です」
俺はどもりながら自己紹輔を済ます。
「じゃあ僕はこれで失礼するよ、正造。まだやることが残っているんでね」
「ああ、ご苦労、真。水無月に後でここに来るように言っておいてくれ」
「はいはい。じゃあまた後でね、由宇人君」
そういって幸崎さんは部屋から出て行った。当然、部屋には俺と星織正造さんしかいなくなる。なんかすごく緊張する。
「まぁそこにかけてくれ」
正造さんはソファを指差す。俺がお言葉に甘えてソファに座ると、正造さんもデスクからソファに座った。俺と正造さんが向かい合う格好になる。
「話はもう聞いていると思うが、改めて言おう。私は君を養子にしようと思っている」
正造さんは単刀直入に切り出す。だからというわけではないが俺も率直に返事をする。
「申し訳ありませんが、その話はお断りさせていただきます」
俺はこの言葉を言うのに若干の勇気を要した。だって正造さんが無言のプレッシャーをまとって俺を見てくるのだ。正直俺はちょっとビビッていた。
「ふむ・・・、確かに急な話なのは謝ろう。だが悪い話ではないはずだ。君は今天涯孤独と呼ばれる身で、一人で生きていくのは困難だろう」
確かにそのとおりだった。でも、だからとはいえ知らない人間の家に家族として入り込むには、俺は年をとりすぎていると思う。小学校低学年ぐらいならまだしも、俺はもう高校生だ。
「それは確かに難しいことかもしれませんが、できないことではないと思います。なにより、星織財団の総帥であるあなたが、俺は養子にしようという理由がまったくわかりません」
俺は一番聞きたかったことを聞いた。そう、何故何の接点もないただの一般市民であるこの俺を養子にしようなどと考えたのか、俺はその理由が聞きたかったからここに来たのだ。
「そうか・・・それは当然の疑問だな。ふむ・・・理由はたくさんあるのだが、一番大きな理由は・・」
言葉を切り、正造さんは俺を見る。一拍おいて
「君のお父さんに頼まれたからだ」
「!」
俺は思わず立ち上がった。何だ?この人は今なんと言った?君のお父さん?何故、今そいつが出てくるのだ。俺の頭は混乱のきわみだった。
「君のお父さんである太助と私は幼いころからの親友同士でね、昔は一緒によく無茶をしたものだ。私たちが家族を持った後も親交は続いていた。君が生まれたときも私は知っているのだよ。そして・・・・6年前に太助は君たちを残して消えてしまった。その時に私はあいつから頼まれたのだよ、もし俺の家族に何かあったらそのときは頼む、と。あいつは君たちのことちゃんと大事に思っていたんだ、それは分かってほしい」
「ふざけるなよ・・・・」
俺の口から自然に言葉が漏れる。俺の理性が飛んでいくのが分かる。
何だ、何の話だ?あいつが出て行って母さんがどれだけ苦労したと思っているんだ?女手ひとつで俺たち兄妹を養ってくれたんだぞ。俺はあいつへの怒りでいっぱいだった。
「ふざけるな!何が大事に思っているだ!本当にそう思っているなら、なんで出ていったんだ!あいつが出て行ったせいで、母さんは日増しにやつれていった、妹は父親がいなくなったからってだけで学校でいじめられた!それも全部あいつのせいじゃないか。それを何だ?いまさらになってそんなことを言われても信じられるわけないじゃないか!」
俺は怒鳴る。正造さんにこんなこと言ったって、ただの八つ当たりというのは分かっていた。だけど言葉が止まらなかったんだ。こんなのただの子供の癇癪じゃないか。
正造さんはそんな俺の癇癪を視線もそらさずに見ていた。そして、苦しそうな表情になり言葉を搾り出す。
「あいつが・・・・太助が消えたのは私のせいなんだ」
その言葉が俺の心を静めた。
「あのころの私は軽率だった。その私の迂闊さのためにあいつはいなくなったんだ。あいつが悪いわけじゃない、すべて私の責任なんだ」
「どういう・・・ことですか」
「詳しくは今はいえない。だが私はその贖罪のために、何度か君のお母さんに私の家に来るよう言ったよ。だけど答えはいつも一緒だった、ここが私達の家ですから、と」
「母さんが・・・・」
「あの事故を知って私は愕然としたよ。私は君たちから父親を奪っただけではなく、君の家族の命を守ることさえできなかったのだから。だから、だからこそ君だけは守りたいんだ」
そう言って正造さんはうつむく。それは正造さんが責められることではない。あいつが出て行ったことについてはまだ分からないが、少なくともあの事故は未然に防げるようなものでない。それでも正造さんの苦悩は俺にも伝わってくるほどだった。
そんなこと聞かされたら・・・断りにくいじゃないか。
「・・・・お話は分かりました・・・少し時間をくれますか?」
俺の言葉に顔を上げる正造さん。
「ああ、もちろんだ。部屋を用意してある。そこを使ってくれ」
と言って正造さんはデスクにあるベルを鳴らす。ほどなくすると部屋の扉が開いた。
「お待たせしました。正造様、ご用件を」
そこにいたのは長い黒髪を編んだ美しい少女だった。家政婦の格好をしている。
「彼を部屋まで案内してほしい」
「かしこまりました。由宇人様、こちらへ」
と言って、部屋を出る。俺はあわてて彼女の後をついていく。彼女は俺が部屋から出ると扉を閉め、深々と頭を下げた。
「私、この星織家の家令を勤めさせていただいている月宮水無月と申します。水無月とお呼びください」
俺は頭を上げた彼女からおよそ感情というものを読み取ることができなかった。きれいな少女だがどこか冷たい空気をまとっていた。普通こういう場合は愛想笑いくらい浮かべても罰は当たらないだろう。あと家令って何だ。
そして俺たちは無言で歩を進める。俺もさっきのことで気持ちの整理がついていなかった。廊下を進み、ちょうど建物の角に位置する部屋にたどり着いた。
「こちらです」
と言って水無月さんは扉を開け中に入る、俺も続いて中に入ったのだが、扉のところで足が止まってしまった。ありえない光景が俺の眼前に存在していたからである。
「・・・・・・・な・・」
部屋の大きさは30畳ぐらいのとても広い、俺の感覚からすればありえない広さだったが、俺が驚いたのはそこではない。中には幸崎さんがいてせっせと動いていたからでもない。俺の家にあった家具類がこの部屋に丸ごと転移していたからだ。
「どうなってるんですか、これ・・・・」
俺はその言葉を言うので精一杯だった。まったく今日は混乱ばっかりしてるなと、頭の中の冷静な部分が分析していたような気がしないでもない。

その後の幸崎さんの話を簡潔にまとめると
「どうせ養子の件は決まったも同然なんだから、引越しは早いほうがいいだろ?」
とのことだった。なんかもう言い返す気力がかけらも残っていなかったので、部屋にあったベッド(なぜかそれは天蓋つきのしかもキングサイズのベッドだった。当然だが俺の家にこんな常識はずれのベッドは存在していない)に倒れこんだ。幸崎さんと水無月さんはすべての家具(と言っても俺の家にあった家具は本棚やCDラックぐらいで、残りの家具はすべて平均的なサラリーマンの月収を優に超えてしまうようなものばかりだったが。多分だけど)を運び終えると「ごゆっくり」と言い残して部屋を出て行った。
「・・・ふぅ」
やっと一息つけた気分だ。俺の想像をはるかに超える展開ばっかりで頭が休まるときがなかった。
「どうしようかな・・・」
なんか考えることもできない。本当にどうしたらいいんだろう、誰か教えてくれないだろうか。なんだかんだと言って俺は一人じゃ何もできないガキなのだ。
そんな風に俺がうだうだしていると部屋の扉がノックされた。
「・・・・はい?」
誰だろう?俺はベッドから起きて扉を開ける。そこにいたのはさっき、エントランスで見た金髪の少女だった。
「・・・なんですか?」
思わぬ人の登場に内心緊張する俺。俺は歓迎されてないのだ、どんなことを言われるのか見当もつかない。
彼女は無言のまま俺の部屋に入ってきて、ベッドの上へと座った。青い瞳が俺を見つめる。
「迷っているのでしょう?」
綺麗なソプラノの声が部屋に響く。彼女は無表情に言葉をつむぐ。
「迷う必要なんかないわ。あなたがこの家に来るのが一番あなたにとっても正しい選択なのだから」
それは・・・俺も理解している。結局、今の俺が決断できない理由というのは、新しい環境に飛び込む勇気がないからだ。
「君は・・・いいのか?見知らぬ人間がいきなり家族に加わっても」
俺がそう言うと彼女は何故か一瞬悲しそうな表情をしたが、あっという間にそれは消えてしまった。彼女は淡く微笑むとそのきれいな口を動かす。
「たいした問題ではないわ。あなたはそんなことを気にする必要はない。あなたは勘違いをしているようだけれど、私たちはあなたを歓迎しているのよ」
そう言って彼女は俺の隣をすり抜け部屋から出て行った。
彼女が部屋から出て行った後も俺は扉の前で彼女が言っていたことを思い出していた。しばらくの間そうしていたあと、俺はおもむろに部屋を出て歩き始めた。無性にじっとしていられなくなったからだ。
屋敷の中をうろついているとやがて大きな植物園を見つけた、その植物園は屋敷の中心にあるドーム部分にあるらしい。俺が足を踏み入れるとそこは木々が生い茂り、色とりどりの花が咲き乱れていた。とても幻想的な雰囲気だった。俺が植物たちに見惚れていると、後ろから声がかかった。
「何してるの?」
後ろを振り向くとそこには金髪の少女が立っていた、一瞬さっきの彼女かと思ったが、よく見ると髪形も微妙に違うし表情も豊かだった。
「あ・・いや、きれいだなと思って・・」
「この植物たちは全部水無月ちゃんが育ててるんだよ。すごいでしょ」
そう言って彼女は満面の笑顔を浮かべる。そんな彼女に俺は問いかける。
「君も・・・俺が養子になることには反対してないのか?」
「君もって言うことは怜莉ちゃんとはもう話したんだ」
彼女は俺に近づいてくると、俺の目の前に立ち俺と視線を合わせる。
「私たちは全員由宇くんがうちに来ることに賛成してるよ。だから後は由宇くんの問題。由宇くんが本当にここに来たくないのなら仕方がないし、そうじゃないなら私たちは歓迎する。でもこれだけは知っといて。私も怜莉ちゃんも水無月ちゃんも由宇くんがここに来ることを望んでいるんだよ」
そう言って彼女は微笑む。
「・・それはどういう意」
「じゃあ、またあとでね」
俺の言葉をさえぎって彼女は植物園から出て行く。追いかけようかとも思ったが、やめた。
『私も怜莉ちゃんも水無月ちゃんも由宇くんがここに来ることを望んでいるんだよ』
あれはいったいどういう意味なのだろうか?俺と彼女たちに接点があったとは思えない。なのに何故俺がここに来ることを希望するのだろう。俺が養子になることで何か彼女たちにメリットがあるのだろうか。
まぁ、考えても仕方がない。大事なのは、どうやら俺はそれなりに歓迎されているらしい。何故そうなのかはまったく分からないけれど。
それに彼女は妙に親しげだったな、由宇くんなんて呼ばれるほど付き合いはないと思うんだけど(というか付き合いなんてかけらもない)。
俺は何も考えられずにいた。意味のないことがとりとめもなく俺の頭の中を駆け巡っていた。俺が植物園から出ようと入り口のほうを向くと、いつからいたのか幸崎さんが立っていた。
「気持ちは決まった?」
「・・・分かりません。俺はどうしたらいいんでしょうか・・・」
こんなこと幸崎さんに言っても仕方がないことだが、俺の口からは自然と言葉が漏れていた。
「ここの人たちは俺を歓迎してくれているみたいだし、俺みたいな子供が一人で生きていくのが難しいことも分かっています。でも俺は決心できないんです」
完全に泣き言だ。やっぱりあの事故のせいで俺の心は弱くなってしまったのだろうか。完璧に吹っ切れたと思っていたのに。まだ俺の中に楔となって残っていたのか。
幸崎さんは静かに俺の言葉を聞いてくれていた。
「俺は怖いんです、今までの世界が変わってしまうことが。俺が今まであの家で生きていたことがうそになってしまうようで」
そう、きっとこれが偽らざる俺の本心なんだ。殻がはがれた俺はこんなにも小さくて弱い。今まで俺は一人でも何とかなるだろうと思っていた。たいした思い上がりだ。俺の顔は自然とうつむく。自分の全てを曝け出した俺は突然恥ずかしくなって、照れ隠しをするように植物園から逃げ出そうとした。
「じゃあ俺はこれで・・・」
「・・・・本当は言ってはいけないんだけどね」
幸崎さんは突然しゃべりだす。幸崎さんのほうに振り返り顔を上げる俺。
「君を養子にするべきだと最初に言ったのは正造じゃないんだ」
え?じゃあ誰が?
「誰かは言えない。でも君はこんなにも皆から思われているんだ。どうかその思いに答えてあげてほしい」
それだけ言って幸崎さんは俺に背を向け歩き出した。
幸崎さんの言葉が俺の中でリフレインする。
『君はこんなにも皆から思われているんだ。どうかその思いに答えてあげてほしい』
俺の頭には正造さんの苦しそうに吐き出した言葉と二人の少女の微笑を思い出す。
10分ぐらいそこに立ち尽くしていた俺は、正造さんの部屋へと足を向けた。

正造さんの部屋についた俺はまず深呼吸をして、部屋の扉をノックした。
「入ってくれ」
俺は扉を開いて正造さんのいるデスクの前に立つ。
「・・・・答えは出たのかな?」
「・・・ええ」
散々迷って迷って迷って、それでも答えが出なかった俺の背中を押してくれたのは、ここの人たちの言葉だった。俺の存在を誰かが必要としてくれている、そんなことは初めてのことだった。だから・・・・・応えてあげたい。俺がいるだけで救われる人がいるのなら、勇気を出してみよう、そう思ったんだ。
「ひとつだけお願いがあります」
「・・何だね?」
いきなりのお願いに少し驚いた様子の正造さん。そして俺は答えを紡ぐ。
「俺の苗字は水戸のままにしてください」

こうしてすべては始まった。このときの俺はこれから何が起こるのかまったくわかっていなかった。ただ漠然とした不安と新しい生活への希望を感じていただけだった。
けれど
何かが変わりそうだ、
そんな確信めいた思いも、
胸のうちに確かに存在していた。