ここ最近は何かを口にした覚えがない。
床についても眠れることはなく、気がつくと朝になっている。
惰性のように大学には通うが、まるで幽鬼を見たかのように俺に近付く者はいなかった。
――まぁ、もともと友人などいないけれど。
アパートの一室にある我が家に帰るも、何もせずにベッドに寝そべっているだけの日々。
・・・先生も『あの事』があってから研究室に篭りきりで、姿を見ることは少なかった。
たまに忙しくしている先生を遠目で見たが、身体は窶れているのに、その瞳は何かを必死で追い求めるかのような強い意志で満ちていた。
まるで悪魔に取り憑かれたかのように、先生は仕事に没頭していたんだと俺は思う。
ある日、死人のような俺を見かねたのか。
先生が何も言わずに渡してきたのは一枚の海外渡航チケット。
俺なんかより先生の方が辛いだろうに、先生は俺を気遣ってくれたんだ。
正直、それは有り難かった。
――この悲しみに満ちた街にいるのが辛かったから。
出発の日、早朝のほとんど誰もいない駅に先生はいた。
もう10年以上の付き合いの俺でも何度も見てないような穏やかな表情で、ただ一言、
「あとは任せなさい」
そう言ってくれた。
「・・・行ってきます」
――どうしてだろう、その時俺は無性に泣きたかったんだ。
始発の電車に乗り、徐々に遠ざかっていく街を電車の窓越しに眺めたとき、突然、心に流れ込んだのは泣きたくなるほどの追憶。
何もかもをあの街で過ごした。
悲しい時も、
苦しい時も、
嬉しい時も、
楽しい時も、
そして必ずそこにあるのは、
――『彼女』の笑っている姿。
そして暗闇へ――。
序章『白は、いつも始まりに』
青年は目を覚ました。
一度、二度と目を瞬くと、青年は妙に重い身体――特に右腕はまるで自分のものではないかのような――を時間をかけて引き起こす。
「・・・・・」
ここはどこだ、と口に出したつもりだったが、現実には魚のように口を開閉させただけであった。
ひどく頭が痛む。
今まで自分が何をしていたのかさえ、靄がかかったように思い出せなかった。
立ち上がるだけのことさえ膨大な労力が必要であったが、それを何とかこなし、ようやく周りを認識した青年は、そこが見慣れた自分の部屋ではないことを知った。
「・・な・・だ・・・れ」
ようやく出せた青年の掠れ声が辺りに響く。
空気が死んでしまったかのような静寂と芒洋とした薄闇に支配されたそこは、確かに青年の住み慣れた部屋とは似ても似つかないものであった。
あらゆるものが曲がり、捩れ、壊れ、結び、離れ、歪んでいた。
まるで前衛芸術のような部屋に青年はいたのだった。
このような部屋など青年が知るはずもない。
だが、しかし、
「え・・・な・・え・・?」
リサイクルショップで購入したひどく固い赤のソファ――『彼女』はよく文句を言っていた――、
買ったはいいがすぐに飽きてしまいインテリアと化した安物のアコースティックギター――『彼女』に何度も弾いて欲しいとせがまれた――、
1週間を費やした不恰好な自製テーブル――『彼女』は不細工ねと笑ってくれたー―、
そして、
『彼女』と撮った唯一の写真――写真に撮られるのをひどく嫌った『彼女』がただ一度だけ撮るのを許してくれた、最初で最後の――。
―――そこは、そこはまぎれもなく俺の部屋だった。
ひどく歪んでしまった、青年が6年間を過ごした部屋だった。
「どう、なってんだよ・・・」
不意に後ずさった青年の足に触れたのは何か固い物体。
若干の恐怖と戸惑いを抱きながら、それを確かめようと振り向いた青年の視界に飛び込んできたのは――、
――ベッドで眠る純白の少女。
無限にさえ思えるほどの想いが溢れ、青年の息が、声が、心が詰まる。
少女は「白」であった。この薄暗く歪んだ場所のなかにあって、それでもなお輝きを失わない穢れなき純潔の白、と。
そしてそれは、かつて青年が『彼女』に抱いていた印象そのままだった。
その絹のような美しい髪の白に、透き通るような肌の白に、青年はひどく魅かれていたのだから。
そう、たしかに、
――少女は、『彼女』のままだった。
――どうして、
――どうして君が、
――だって、君は、
ザザッ。ノイズが走る。
――いや、
――君は確かに今ここにいる。
――守らなければ。
――救わなければ。
――償わなければ。
――それだけが、俺が確かに今ここにいる意味なのだから――
「ようやく」
暗い。
そして黒い。
光の存在など一粒子ほども許さないかのような、暗く黒い空間に声が響く。
「ようやく、始まった」
声。
確かにそれは声であったが、大気を震わして届くそれとは違うものだ。
母親が、言葉を解すはずのない赤ん坊の意思を読み取るように。
死の際にある老人から、その家族が最後の意思を感じるように。
伝わるものがある。
それは想い。
幾時も、幾時も想い続け、その想いの強さ故に力を持つ。
世界の在り様を変える。
想いが叶う。
つまりはそういうことであった。
それ自体は尊い、慈しむべきものである。
なれど。
「先ずはこの街を喰らった」
想いとは善や悪とは隔絶されたものである。
「・・・貴様らのすべきことは唯一つ」
故に、
「命で償え」
――この世界では、喜劇も、悲劇も、
等しく起こり得るのだ――
「・・・・ハ・・ハ」
男がいた。
家も、道路も、壁も、塀も、窓も、柱も、
何もかもが狂ってしまったその街のどこかに、
その男はいた。
「ハハ・・・ハハハ」
男の容姿はひどく端麗で、しかし人間的な温かさとは無縁なそれであった。
言うなればそう・・・悪魔的と言おうか。
「アハハハハハハハハ!」
狂ったような哄笑が響く。男は全身全霊で歓喜していた。
「こんな!こんなことが!アハハハハハ!」
いつしか男の周りを風が吹き始める。いや、それは風とは言い難い。何故ならば、
――黒い風などこの世界には存在しないはずなのだから。
「ああ!分かった!何もかも分かった!僕のすべきことは」
そして男の傍らに、
「命を、奪う」
死の匂いをまとった黒の異形が――
役者は揃った。
そして始まるは白と赤と黒の物語。
救済と略奪と、
命と死と、
そして、
――愛に彩られた物語――