「父さん・・・」
俺は墓前で静かに語りかける。
「俺、あの島に戻ることになったよ」
内から湧き上がる感情を懸命に抑えて、淡々と言葉を紡ぐ。
「妃鷹の家が俺を引き取ってくれるみたいなんだ」
もう3月だというのに、凍えるような澄んだ空気がそこにはあった。
「だからさ、あまりここにも来れなくなると思う」
俺は置いていた鞄を拾い上げ、肩にかける。
「俺は必ず上手くやるからさ、父さんは心配しないで眠っていてくれ」
言い終わると同時に強く、そして少し暖かい風が吹く。
俺にはまるで、それが父さんからの返事に思えた。
「・・・・・」
なんだか、感傷的なことを思った自分がおかしくて、俺は嘲るように、慈しむように、小さく微笑んだ。
「・・・それじゃ、行ってきます」
踵を返し、決意と覚悟を胸に、歩き出す。
「さようなら」
そして、決して振り返ることはなかった――
「真珠さまーっ!どちらに行かれたのですかっ!真珠さまーっ!!」
また遠くから翡翠のけたたましい声が聞こえてきた。
いつものことだ。翡翠があたしにうるさい小言を機関銃のようにぶつけてくるのは。
けれど、今日に限ってはそれが妙に多い。
「真珠さまーっ!」
その声がいつもより幾分か喜びに満ちていることに、きっと翡翠は気付いていないんだろうな。
「しかし、照れ隠しであたしに当たるのはどうなのだ」
まぁ、気持ちは・・・・・分からないでもないけど。
「・・・ああ、久しぶりだ」
本当に久しぶりにあいつに会える――
「はぁ・・・もう、真珠様ったら・・・」
屋敷の中を隈なく探したのに、真珠様の姿は何処にも見えなかった。
いつの間にか姿を消しているのは、何時ものことと言えばそうなのだけど・・・。
「朝に続き、昼のお勤めまで怠けるなんて」
きっと浮かれすぎて気が抜けているんだ。そうに違いない。
「・・・・・」
母様からあの話があった朝から、何だか気持ちが落ち着かない。
「・・・はぁ」
もう何度溜息をついたのか。私はズルズルと軒下廊下に座り込む。
「ああ・・・いい天気」
柔らかく降り注ぐ陽の光から、春の匂いを感じたような気がした。
「あに様・・・」
あなたに会いたいけど、会いたくないよ――
暖かい昼光が差す境内でいつものように掃除をしていたら、
「水澄ちゃーん!」
「ひゃあああぁ!」
いきなり後ろから抱きつかれて胸を揉まれたーっ!?
「ななな何をするっ!雫!」
「相変わらず水澄ちゃんの胸は悲しいね」
「ひ、人が気にしてることを毎度毎度・・・!」
「というわけで水澄ちゃん、耳寄りな情報があるんだよ!」
「ああ、もう!・・・なに」
観念。
「あのね、転校生の男の子がやってくるんだって!」
「・・・え?」
この島に?転校生?
「それは・・・随分と物好きね」
わざわざこんな自然しかないような島にやってくる人がいるなんて。
「しかもね、その男の子って元はこの島出身なんだって!」
「・・・この島出身・・・」
私の知る限り、この島から出て行った人は・・・、
「誰だろうね・・・水澄ちゃん知ってる?」
・・・ああ、そうか。
彼が帰ってくるんだ――
神社からのいつもの帰り道。
「もうそろそろ、ここも桜が満開になるかなぁ」
言いながらゆっくりと石段を下る。
あたしはここ―春になれば満開の桜に彩られることから桜階段と呼ばれる―を歩くのが大好きだった。
(まだ三分咲きってとこかな)
でも、きっとあと数日でこの石段は薄桃色で溢れるのだ。
(・・・楽しみだなぁ)
もうすぐ春がやってくる――
穏やかな風が吹く。
若草がさらさらと流れているのが、頬や腕に当たる感触で分かる。
「・・・あったかい」
休みの日は屋敷の裏手にあるこの丘で寝転がるのが、いつもの習慣だった。
(・・・しずは年寄りくさいって言うけど)
わたしは好き。
ここ最近は寒くて来れなかったけど、今日は平気。
「・・・あったかぁい」
「おーい、ななちゃーん!七海ちゃーん!」
・・・しずの声だ。
せっかくゆっくりしてたのに。
まぁ、いいか。
だって今日はこんなにもいいお天気――
ひらり。
どこからか桜の花弁が舞い落ちてきた。
「・・・ふふ、気が早いこと」
そう言いながら、わらわが仰ぎ見るのは一本の大樹。
千年桜。
この屋敷が桜屋敷と呼ばれる所以でもあるこの桜は、今はただ一つの花弁すらその幾数もの枝につけてはいなかった。
(本当に千年も前から在るとは思えないけれども)
そっと千年桜の幹に触れる。
(あなたみたいに、ただそこに在り続けられるというのはどれ程幸いなのでしょうか)
らしくもなく、口から漏れるのは溜息。
(・・・そうすれば)
「翠蓮様、御前様がお呼びで御座います」
突然の声。いつからそこにいたのか、わらわの後ろに一人の女中が立っていた。
「・・・承知いたしました。急ぎ向かいます」
音もなく歩き始める女中の後を追いつつ、わらわは一度だけ千年桜を振り返った。
そうすれば、
わらわは彼を待ち続けることが出来るのだから――
「ねぇ、白百合」
「なに、黒百合」
私達は向かい合って座っている、もちろん正座で。
「白百合の方がお姉さんだよね」
「・・・違うよ、黒百合のほう」
そんな私達の間には一つの、
「お姉さんなら妹のために我慢しないとね」
「な、なんでボクがお姉さんになってるの」
桜饅頭が。
「だっていつも自分でそう言ってるじゃない」
「言ってないよ言ってないよそれ黒百合だよ」
やっぱり春には桜饅頭――
「・・・ねぇ」
私はいつものように墓前で手を合わせる。こんなことしたって何の意味もないのに。
許されたいのだろうか?
「あの子が、帰ってくるわ」
それとも、
「・・・往弥・・・」
・・・罰してほしいのだろうか。
「・・・私はどうしたらいいのかな」
何も、分からなかった。
「瑠璃・・・」
・・・春の風は吹かなかった――
(・・・ちっ)
俺は心の中で舌打ちをする。もしここが天井裏なんかでなければ大声で悪態をついていただろう。
下では七宝院を筆頭とした老人どもの会議が行われており、その内容は最悪なことに想像通りだった。
(まだやる気か、あのジジババ共)
相も変わらず老人の妄執には反吐が出る。
(ふん、どうやらあの鬼女はいないみたいだが)
まぁ、あいつがいたらこんなとこで暢気に盗み聞きは出来ないだろうが。
(・・・まぁ、いい)
俺の最愛のためにも、今度こそ必ず、
呪われた春を終わらせてやる――
――紅い花びらが空に舞う――
「ひらり、ひらり」
――風に攫われ、揺られ、流れている――
「あぁ」
――それは、静かに、澄んだ音色のように――
「きれい、ね」
――世界を優しく染め上げる――